らしく。

作詞をしています。

皮を剥いで

人には加害性がある。発露の仕方はそれぞれだが、言葉や態度、または暴力で示されることがある。

生きているとその事実を目の前に突き付けられる機会があるのだが、その度に言葉にできない悲しさや恐怖に襲われる。一体全体どうして、他者にそこまで加害しようと思えるのだろうか。

 

先日、暴力で加害性を発露している人に久しぶりに出会った。

用事があって出かけた先で、下りのエスカレーターに乗ろうとした。大きくて長いエスカレーターは上り・下りがそれぞれ三本ずつほどある。真ん中の下りエスカレーターに乗った時、隣の下りエスカレーターに乗った人が蹴り飛ばされた。

何かの冗談みたいに、蹴り飛ばされたのだ。

蹴られた人はかなり危ない体制で踏みとどまり、勢いよく振り向いた。その動きに釣られて振り向くと、別の人がエスカレーターの入り口手前に立っていた。足を降ろす動作も見えて、もしかしてこの人が蹴ったのか、と気づいた。周りの人も同じように振り向いたり二人を何度も見ていて、ほんの数秒間で一気に緊張感が周囲を埋め尽くした。

 

そのあとはもう、なんというかご想像通りだ。蹴られた側が怒声を上げてエスカレーターを逆走して駆けあがると同時、蹴った側が踵を返して逃げ出す。少し見守っていたが、群衆の中を走るのなら先に走る方が不利だ。蹴った側が蹴られた側に捕まえられていた。多分。

なにせこちらも下りエスカレーターに乗った矢先に ”蹴って蹴られて振り向いて怒鳴って走り出して” が発生したので、最後までは見守れなかったのだ。別に見守りたくもないのだが。

 

数日前に起きた出来事なので、文章に起こすだけなら平気だ。ただ、目の前で起こった瞬間はひどいパニックだった。冷静を取り戻すために銀行に行こうとして、その日はカードを持っていないことにATMの目の前で気づいた。せめて美味しい夕ご飯でも買うか、と思って総菜売り場に足を向けても、何も食べたいと思えないほど思考が散らかって息がしにくかった。早々に人混みから逃げ出した。電車に乗っても蹴られた人・蹴った人の顔がフラッシュバックを続けて、貧血を起こしてしまった。

 

怖かった。目の前で、人が人に明らかな暴力を振るった。何かが少しでもずれていれば目の前で誰かが亡くなっていたかもしれない。そのことがただ怖かった。

実は蹴られた人の数段前に、全く無関係と思われる人が一人いたのだ。つまり蹴られた人が少しでもバランスを崩していたら、全く無関係なその人も巻き込まれて何かけがをしていたかもしれない。運が悪ければ、もしかしたら。その事実がひたすらに怖かったし、悲しかった。

 

どうして人は人を加害するのだろう。一体どういう思考回路で、あいつを蹴っ飛ばしてやろ・あのむかつく奴を実名を出して糾弾してやろう、そう思うのだろう。

人間誰しも、敵意や怒りが沸き起こることはもちろんある。許せない怒りに震えたり、顔を見るだけで嫌な気持ちになってしまう人だって、もちろんいる。そこまではわかるのだ。

 

加害している人や言葉を見ると、むき出しの憎悪や殺意に触れる感覚になる。

痛い。自分に向けられたらもっと痛いのだけど、ほかの人に向けられていたって当たり前に痛い。突き刺さる痛みで泣いてしまうこともある。どうしてこんな痛みを人に向けられるのか、わからなくて混乱する。あなたが一体何をされたというのだ。

 

以前、むき出しの悪意に触れて泣きじゃくる日々を送ったことがある。ドロドロして真っ黒のそれは全部を飲み込んで、善意も幸福も消し去ってしまうのではとおびえた。そんなに恐ろしい物をむき出しにして他者に見せる人がいることに混乱した。

ある意味、あれも加害だった。悪意を持っていた人間に加害の意思はなくとも、悪意をむき出しにしたまま放置すること自体が加害ではないだろうか。

 

優しく暖かな世界で生きたい。ほんの少し落ち込んだり涙することがあったとしても、刺だらけの憎悪にも、吐き気がする悪意にも、それらを投げつける加害にも、極力触れることがなく。それは自分以外のありとあらゆる人も、そうであると、嬉しいのだが。

 

何事も思うがまま進みはしない。

今日は天気がいいので布団を干そう。せめて眠るときくらい、暖かで優しい世界だと思えるように。