らしく。

作詞をしています。

カイブツ

岡山天音主演の映画、「笑いのカイブツ」を観た。

笑いのことしか考えられない、5秒に一度ボケを考える。毎日1000本ノック(ボケの)。紙とペンがいくらあっても足りない。売れたい。

端的に言うとそんな人間の話

 

わかりやすく社会不適合な人間だった。他人とのコミュニケーションが取れず、酒に走り自死を試みる。グチャグチャだ。友達の友達なら二度目は会わないし、合間の友達にも距離を置くよう間違いなく進言する。

 

だけどカイブツだった。笑いのカイブツ。笑いの才能は誰が見ても明らかで、それ故の妬み嫉みは当たり前で、でもそんな事どうでもいい。面白いネタが書ければ、面白いものを作れれば。そんなカイブツだった。

 

書きたい、書くことしか出来ない。だから作詞家を目指してる。

カイブツを目の当たりにして、そんな現状クソ喰らえだと思った。小指の先程の意味もない、価値もない、クソ喰らえ。

 

 

どうして自分は他人とコミュニケーションが取れるんだ。なんでそんな所に能力が振られた。奇才にも天才にも、秀才にも逸材にもなれない。

野田洋次郎にも、高橋優にも、ポルノグラフィティにもなれない。

カイブツになれない、人間は、人間のままなのだ。

 

謹賀新年

操作盤

心が壊れる前に対策を取らないといけないという。

ストレスの原因から離れたり、好きなことをして気分転換をしたり、もっと言えば学校や職場を休んで環境を変えたり。

 

心が壊れるとどうなるだろうか。人によるだろうが、例えば歩けなくなって道端や職場の端っこで蹲ったり、ぼんやり電車に乗っているだけで涙が止まらなくなったり、体のどこかが原因不明で痛んだり、睡眠時間が異なったり、女性なら生理が止まったりする。

他にもストレス由来で現れる症状はたくさんある。発疹が出たり、何をしていても笑えず気分が落ち込んだままになったり、大好きな音楽が耳障りになって聞きたくなくなったり、食事の量がコントロール出来なくて過食したり。

 

さて、色々思いつく限り列挙した。これは全て自分に現れた症状だ。

心を壊したことがある。2年前くらい。

 

まあ原因は様々あって、色んな側面のストレスが3ヶ月でまとまって断続的にのしかかり、さらに言えばよくないことに誰かに相談したり話すことが出来ないトピックばかりで、抱え込む他なかった。

3月の末にボキン、と心の操作レバーが壊れた。人に心配されることが苦手で、いつも笑顔でいる自分が求められると知っていたから、折れて短くなって言うことを聞かなくなったレバーを必死こいて動かし続けた。ずっと、誰にも言われていないはずの「いつも笑顔でなければいけない」が幻聴として聞こえた。生理は4ヶ月止まった。

 

心が壊れる前に対策を取らないといけないことの理由は、この操作レバー(と例えている何か)が、一度壊れると何一つ元には戻らないからである。人間は機械じゃない。無機物じゃない。どうにかツギハギで元に戻したフリをしても、それは元の形には決して戻らない。

 

ちょうど一年前くらいに、同じような内容のブログを書いていた。あの頃はまだ生々しかった傷が、もうカサブタも剥がれて傷跡だけになったから、こうして触れられる。

 

今日、市役所に行ってきた。税金やら保険やらの手続きの為だった。行政や病院に行くと、自分が社会不適合者だと言われている気持ちになって落ち込む。

ただ、2年前、あの日あの時、壊れて折れて凹んで傷だらけになった自分の操作盤を思い出す。

今は、形を変えた操作盤がある。このレバーとボタンで、泳いでいける海を探すしか無いのだと、思う。

聞いて。

最近すごく納得する詩が書けている。

 

一時期、半年程?全く書けなくて、その事が酷く嫌だった。書かなかったし、書けなかったし、書いても納得するものではなかった。

 

いつも作詞していて、納得する出来になる詞は五本に一本、あるかないか。今月は三本書いた。そのうち二本が納得出来るものになった。我ながらいいものが書けたと思うし、その内一本は自分の中で過去最高の出来と自負している。(そもそもそんなにクオリティが問われる程の物を書いているのか、とは言わないで欲しい)

なんだか嬉しくて、とりあえず誰かに伝えたかった。

ブログってこの使い方でいいんだろうか。

まあいいか、自分のブログだし。

 

有意義

昨日、「もっと有意義な人生にしないと」と言われた。

そう言ってのけた人は、作詞家を目指していることを知らない。ただ一生懸命仕事をすることが嫌で会社を辞めた、Z世代らしい放蕩人間とでも思われているのだと思う。

 

作詞家目指してるんです、コンペ応募したり、まだ全然アマチュアだけど作品作って世に出したり、できるだけ毎日SNS投稿したり、やれること考えながら、どうにかこうにか生きてます。家賃も光熱費も毎月支払って、保険や年金も収めて、時々派遣とかでまとまった収入をもらいながら、一人で暮らしてます。親の支援は有難く受け取ってるし多分すねかじりに見えてると思うけど、会社で働いて心を壊した時より、今がずっと心身ともに健やかで穏やかで、幸せだと感じます。

 

なんて言い返すことはできず、毎日生きてるからそれでいい。とだけ優しく反論した。議論したいとも思わなかった。

 

だって傷ついたから。悲しかったから。

「有意義な人生にしないと」って、それはつまり、言われた側の人生を無意味だと言っていることに近い。その言葉の無神経さや鋭さに、おそらく発言した当人は気づいていない。

全部ひっくるめて悲しかった。自分の考えや現状の立ち位置が理解を得難いものだとは十分知っているけれど、悔しかった。こんな時でも、自分の夢を胸張って言うことに怖がっている自分が、悔しかった。

 

その一言は何時間もかけてボディーブローみたいにじわじわ染み渡って、家に帰る途中たまらず蹲った。このまま消えたいと久しぶりに思った。梅雨らしからぬ晴れた夜空に、雨くらい降っててくれよと呪った。

家に帰って、大好きな音楽を聴くためにDVDを再生した。少し前みたいに深海に沈もうとする心をつかむのに必死で、家のあちこちを散らかしながらDVDを探して、ぐちゃぐちゃで薄暗い部屋でDVDを見ながら泣いた。たくさん、たくさん泣いた。拭う暇もないほどに泣くのは、どれくらいぶりだっただろうか。

 

見とけよ、あなたが意義のないと言っていた私の人生を使って、あなたが終ぞ書けない言葉を、私はたくさん書いてやるからな。

 

その決意と一緒に、翌朝、用事の後カフェで作詞のノートを開いた。夜更かしと泣きすぎのせいで瞼が半分くらいしか開かなくて、眠たくて、集中できなくて、結局書けなかった。コーヒーを一杯飲んだだけのあの20分を、きっとあなたは有意義でないと思うのだろう。いいんだ、今月は六本の詩を書くことが目標で、その内の二本、今週書くって決めてるから。言葉は絶対に湧いてくる。人間である限り、言葉で伝える気持ちを尊いと感じている限り。書きたいと、思う限り。

 

あなたに言われた言葉は、あなたが忘れようとこの先十年、二十年、忘れてなんかやらない。

 

腫れた瞼はまるで殴られたみたいで、こんなにも不細工になる事あるのかと笑ってしまうほどだった。半日放置したあと、冷感のアイマスクを付けたら収まった。

アイマスクはまだいくつかある。もう泣いたってなにも困らない。怖くない。

 

もう、泣くもんか。

御座候

御座候というお菓子がある。

 

似たようなものは全国に分布していて、呼び方が異なるらしい。回転焼きとか今川焼とか。御座候という名前は、関西で一般的だ。

 

連休の中日に、実家に行くことになった。別に手土産なんてなくても怒られはしないし、母とも最近はよく会っているので気を使うこともないのだが、その日は決めていたのだ。御座候を買おう、と。記憶の中でいくつか店舗の場所は知っていたのだが、どこも実家に帰るルートからすると少し外れている。どうしたものかと調べるうちに、乗り換えの駅から直接行ける百貨店の中に店舗があると知った。全然知らなかった。これから役立ちそうだ。

 

同じ日に実家にいる予定の姉には事前に連絡を入れた。赤あんと白あん、どっちがいい?と。御座候を買っていくと聞いて喜んでいた姉からは、赤あん!と返答があった。そうだよね、私も赤あんが好き。

 

実家に御座候を買っていこうと思ったのは、祖父に供えたかったからだ。ちょうど一年と少し前に他界した祖父。お墓は別の場所にあるので墓前ではないのだが、母が写真や花を飾る小さな場所を実家に作ったと報告してくれていた。その時ふと、じいちゃん、御座候好きやったよなあ。なんて思いだしたのだ。亡くなる前を含めて五年ほど、祖父に会ってはいないのに。

 

実家についてすぐ、母に御座候を手渡した。これお供えして。後で食べよう、と。その流れでふと、じいちゃんって御座候好きやったイメージあんねんなあ、と母に言った。革ジャンを脱ぎながら言うと、母は、昔は持ち帰りできるスイーツなんてなかったからね、と返した。そうか、そういえば祖父は別に甘党というわけではなかった。

 

こういったことは間々ある。よく施されていたものは、大抵祖父の好みには関係ない。幼かった孫たちのことを思って、いつも祖父が心を砕いた結果だった。

亡くなってから知った祖父のことは他にもたくさんある。

高卒だと思っていたけれど、中卒で、案外いろんな仕事を転々としていたこと。若いころからタバコを吸っていたこと。白黒写真の中でポージングを取る祖父は、ちょっとびっくりするくらい爽やかなイケメンだった。祖母とたくさん旅行に行っていたこと。写真をよく撮っていたこと。

 

御座候の中身は粒あんだ。実はこし餡の方が好きなので、最近まで御座候はとんと食べていなかった。もしかしたら、こし餡の方が好きと気付いた昔、祖父の御座候をいらない、と言ったかもしれない。そうなんとなく思った。何一つ覚えていないから、確証はどこにもないのだけれど。

タイ焼きの中身ではカスタードクリームが好きだし、焼き菓子とかより団子や大福のもちもちした和菓子の方が好きだ。

でも、御座候は好きなのだ。ほんの少し昔より値上がりしたし、好まない粒あんを使っているけれど、御座候が好きだ。あったかい包み紙を膝の上にのせて、各駅停車の私鉄に乗る。ドアを開けると、そこに祖父がいるような気持ちになる。おお来たか、と迎えてくれる声に会える気がする。

 

タンクトップとゆるっとしたハーフパンツで、台所のそばの椅子に腰かけながら、麦茶を飲みながら、新聞紙を広げている、じいちゃんに。

 

カレーを作りました

カレーを作った。

美味しくできたのでレシピを書こうと思う。

 

基本の材料は何かしらの肉、好きな野菜、トマト缶、しょっぱい系の調味料、カレー粉

肉はなんでもいい。あっさり食べたかったら鶏肉。食べごたえが欲しかったら豚肉。ひき肉も行けるし、肉がない時は厚揚げでもいい。

 

野菜はさらになんでもいいけれど、根菜類が向いている。夏場はズッキーニや茄子、ピーマンを入れても食べやすくなっていい。葉っぱ物は入れたことがないけれど、存在感が消えてしまいそうだなと個人的に思う。キノコがあると食べ応えと栄養面でいい気がする。

 

今回は鶏もも肉ブロッコリー、カリフラワー、大根を入れた。

 

煮込み料理用の鍋に、1口大(大きめが好み)に切った鶏肉を入れて、母から貰った乾燥しょうがパウダー(辛味が強くて美味しい)をこれでもかと振る。どうせ混ざるから適当でいいけれど、全体的に振ると後が楽。

オリーブオイルを適当に入れて、炒める。

少し焼き色がつき始めた位で、やはり母に貰ったブロッコリーとカリフラワー(下茹で済み)の余りを入れる。これは炒めすぎず、軽く混ぜるだけでいい。

トマト缶は多分カットしてる方が扱いやすい。今日は基本のトマトソースという、味付け済みのものを使った。湯むきして刻んだトマトでももちろんいい。空き缶を洗うついでに、缶の半分くらいの水もいれる。スープじゃないので、ちょっと水分が少ないくらいでいい(野菜から水分も出る)。生のトマトなら水がなくても割と行ける。心配なら1/2カップくらい入れて様子を見る。

大根はいちょう切りにして冷凍していたので、軽く電子レンジで解凍して、出た水分ごとぶち込む。

全体を混ぜて、中弱火で10分くらい。鶏肉に火が通るまで煮込む。

いい感じかなー、と思ったら適当に調味料を入れて味を整える。

今日は冷蔵庫で長らく行き場のなかったすき焼きのタレの余りと、ケチャップ少し。塩をひとつまみ。すき焼きのタレは普段使わない。オススメはウスターソースか、具材により醤油。

 

またひと煮立ちさせて、カレー粉。

大さじ2杯くらい入れてみたけれど甘かったのでもう1.5杯追加した。味見。思わず美味しっ!と1人で声に出してしまった。

 

特に誰の役にも立たない今日のカレーレポでした。

1番好きなのは角切りにした大根、厚揚げ、合い挽きミンチのキーマ風です。騙されたと思ってやって見て。

不安

作詞家のオーディションに応募した。

 

結果が届くまでまだ少し時間がある。不安でしかない。

オーディションに落選することそのものではなく、他者からみて客観的に、才能がないと認定されることが怖い。

また、落選すること自体ももちろん怖い。ただでさえ漠然としている将来がより一層目標を見失うからだ。さっさと諦めてほかで生きて行けと言われても、なかなか難しいものだと思う。

 

ここ二週間ほど、ずっとその不安に苛まれている。将来が見えない不安、良くも悪くもこれからが決まってしまう不安、自分の書く詩について、第三者からの評価が付く不安。

その中でも特に「ダメだったらどうしよう」は大きい。世知辛い話だが、家賃が払えなくなってしまう。せっかく提出した開業届を引っ込めて、もうちょっと安定した職業に就かないといけないかもしれない。

 

そうやってグルグルした渦の中で、もしダメだったら、作詞をしなくなるのだろうか。と自問自答した。答えはすぐに出た。ノーだ。

今、今回のオーディションでチャンスがなくとも、何も変わらず書き続けるのだ。作詞が好きだから。

 

なぜ作詞家になりたいのか、と聞かれることもある。安定した仕事に就くことが出来る学歴や社会人のスキルを持ち合わせている以上、社会人として仕事をしながら、趣味として書くことは何一つ問題ない。その中で作詞家になりたい理由は単純だ。自己顕示欲に他ならない。

 

綴る言葉を、その繰り返しで出来る詩を、詩が生む世界と想いを、聞いてほしいのだ。春の日差しが柔らかで暖かなこと、夏の空が疑いようもなく透き通って美しいこと、秋の樹々が色とりどりに少し寂しいこと、冬の星空で点つなぎをすることの楽しさ。

なんてことないそれら全てが、ひどく愛しくて、抱きしめたくなるほど大切だ。

そのことを書いた詩を、どうか少しでも多くの人に見てほしい。

 

もう一つ、劣等感。

詩を書くことも、少しポエミーな発言をすることも、昔から幾度となくからかわれてきた。自分の二面性を受け入れられるようになったのは最近だが、それまではなかなかどうして受け止めきれず、何度も何度も、書いた詩を破って捨てた。

だからこそ、これで生計を立てたいのだ。どれだけからかわれても、バカにされても。うるせぇ、これで生きてるんだよ。そういって突っぱねられる、その自信が欲しい。

 

自分の考えを整理してもまとめても、不安なことには変わりない。だからこうして、久しぶりにブログを書いた(下書きにはいくつか保存しているのだが、思えば全く公開していない)

 

一か月後、私は泣いているだろうか、笑っているだろうか。