らしく。

作詞をしています。

アマチュアとプロ

「書ける」時と「書けない」時がある。

スランプなんていう高尚なものでは決してなく、単なる波だ。その波を乗りこなせていないだけ。それこそアマチュアたる所以なのだと思うが、実際その差が激しい。

 

そもそも、「書ける」時は大体冒頭のこのくらいの文章が頭に浮かぶ。浮かんだものをタイピングなりノートに書きだすなりしてるうちに続きがどこからともなくやってきて、何かが完成する。

書けるときは自分でも引くくらいなんだって書ける。ブログも止まることなく書き上げることができるし、作詞も自分で気に入るフレーズがするする出てくる。書きたいことがとめどなくて時間が足りないくらいだ。

 

書けない時はどうなのだろうか。

先日、投稿する形のエッセイを探していた。書けない気持ちのまま日々を怠惰に過ごしている感覚が強く焦ったのだ。書けそうな話題のエッセイをいくつかピックアップして、要件を確認してWordファイルを開く。

書けなかった。

100文字も書かないうちに、なんだか違う、伝えたいことはこうじゃない、と頭を振ってdeleteを連打する。数回繰り返して、パソコンを閉じた。はい、無理です。

 

書けない時の要素はいくつか判明している。

単純な忙しさが一番の要因だ。時間や精神的な余裕がないと、自分の中から出てくるのは言葉じゃなくて単語になる。あー、うー、と唸って目の前のことをこなしている間に日々が過ぎ去っていく。光陰矢の如しってこういうことなんだろう。

もう一つ、これは先日の書けない時に気付いたのだが、他人に気を使っている時はまあ驚くほど書けない。多分方言だが、「気にしぃ」な性格である。文章を書きながら、これは誰かを傷つけないか、特定の誰かを無意識に非難していないか、何度も気にしてしまう。

気にしながら書いた文章は分厚い壁の向こうに向かって書いているようなものだ。丸裸とは程遠く、自分も他人も辛くならないよう、壁を挟んで発信する。壁は押しても押しても動く気配がなくて、そのうち押すのに疲れてへたり込んでしまう。

そうして、書けなくなる。

 

先日失業保険の説明を聞いてきた。

通り一辺倒な説明と、どんな方法で伝えられても複雑な仕組み。事前に窓口で聞かされていたのと内容もほとんど変わらなかった。30分と聞いていたのに45分かかり、色んな意味でぐったりした。だからお役所は嫌いだよと心の中で舌打ちをした。

結論から言うと、3か月で失業保険の支給が終わる。それまでに進退を決めろということだ。作詞家としての道を歩むか、才能のなさに絶望して会社で働く人に戻るか。長年の夢を3か月で選び取れという。自分が凡人だと受け入れるのに、3か月はあまりに短くないだろうか。

みんなと同じから外れる勇気のなかった人間だ。馬鹿にされることを、仲間外れを怖がって、作詞のことはずっとごく一部以外に話してこなかった。悲しいくらいに、この3か月を受け止めるしか選択肢を持っていない。

 

ずっと臆病だった。だから、プロになりたかった。

作詞やブログが普段の自分とかけ離れていたとしても、プロとしてそれを生業にし、お金を稼げば、胸を張れると思ったのだ。これが好きだと。仕事として認められていれば誰も馬鹿にはしないと思うのだ。

いつかの友人も、五年前の恋人も、親も、顔の知らない誰かも。

 

プロになるときっと、色んな事に気を使って文章を書くことになるのだろう。大嫌いな大人の事情に挟まれて泣きながら言葉をひねり出す日々があるかもしれない。

「書けない」時に「書けない」と主張できる。そんなプロになれる日は、いつか来るのだろうか。